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秩父札所札所二番真福寺の裏にある歴代住職の墓群 

秩父札所の番付

札所三十二番 法性寺にある長享二年(1488年)の秩父札所番付では、秩父札所は、33ヶ所とされています。
今よりも一寺少なく、また、番付も現在とは異なります。
長享二年(1488年)秩父札所番付は、以下の様な内容でした。

昔の番付 昔の寺名 現在番付
     
一番 定林寺 十七番
二番 蔵福寺 十五番
三番 今宮 十四番
四番 壇之下 十三番
五番 野坂堂 十二番
六番 岩井堂 二十六番
七番 大淵庵 二十七番
八番 橋立寺 二十八番
九番 篠戸 二十九番
十番 深谷寺 三十番
十一番 岩屋堂 二十五番
十二番 白山別所 二十四番
十三番 西光寺 十六番
十四番 小鹿坂 二十三番
十五番 般若岩殿 三十二番
十六番 鷲岩殿 三十一番
十七番 小坂下 二十三番
十八番 童部堂 二十二番
十九番 谷之堂 二十一番
二十番 岩上 二十番
二十一番 瀧石寺 十九番
二十二番 神門 十八番
二十三番 岩本 三番
二十四番 四万部 一番
二十五番 荒木 四番
二十六番 五閣堂 五番
二十七番 大慈寺 十番
二十八番 坂郡 十一番
二十九番 明地 九番
三十番 萩堂 六番
三十一番 西禅寺 八番
三十二番 牛伏 七番
三十三番 水込 三十四番

のちに現在二番の真福寺が追加されました。

なぜ、秩父札所の番付が変わったのかと言いますと、江戸時代に秩父札所巡礼が流行しました。
それに伴い江戸からの巡礼がしやすい様に番付を変えた。
と、いう説が有力です。

いつ秩父札所が34ヶ所になったのか?

秩父札所を34ヶ所とする初めての記録は、長野県南佐久群臼田町の岩屋城跡に残る大永五年(1525年)銘の「日本百番観音供養碑」とされています。
しかし、この碑文の年号の部分が現在では、磨り減って判読が出来ない状態まで痛んでいるようです。

次に古い物は、天文五年(1536年)の巡礼札(札所三十番法雲寺蔵)です。

「西国坂東秩父百カ所巡礼只一人/奥州葛西住赤萩伊豆守平清定/為二親菩堤天文五天三月吉日」

と、書かれており、平泉中尊寺その他に納められた巡礼札にも

「泰順札百カ所/奥州葛西住横澤平重持/干時天文十一年寅今月日」

と書かれている事から遅くても天文年間に一寺増えたのだと推測出来ます。

秩父札所が現在の様に34ヶ所となり番付も変わると、三十番法雲寺から三十一番観音院への巡礼は、両神を通る様になりました。
この巡礼道の途中に法養寺薬師堂があるのですが、ここには、天正七年(1579年)を始めとする3枚の秩父巡礼札があり、かつて薬師堂堂内に釘で打ち付けたのだと言います。
また、堂内には、巡礼者が書いた落書きがあり、慶長六年(1601年)と、寛永十三年(1636年)の物とされています。
この落書きは、かつて、秩父札所巡礼者が薬師堂の側を通って巡礼した際、薬師堂にも参拝して残した落書きなんだと思います。

なぜ、一寺増やしたのか?

これは、いくつかの説がありますが、個人的に有力だと思う説は、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父33ヶ所の合計が99ヶ所だとキリが悪いので、一寺増やしたのだという説です。
そして、なぜ、秩父を34ヶ所にしたのかと言うと、西国、坂東札所と比べて秩父札所が一番歴史が浅かったので、一寺を足して100ヶ所にしたという説です。

実際の所は、なぜ、一寺増やしたのかは、謎に包まれています。

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