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札所一番観音堂の透かし彫り

観音信仰と札所巡礼

我が国で観音信仰が伝わったのは、飛鳥時代と言われています。
当時の信仰は、ごく一部の人々が造像、写経、読経などによって、観音の御利益を求めていたそうです。

観音信仰の説明書?

ごく一部の間で信仰されていた観音信仰ですが、他の人達が観音信仰を受け入れるには、中々難しい物がありました。
そこで、観音の御利益を解りやすく教える為に様々な書物が書かれました。
奈良時代には「日本霊異記」平安時代には「今昔物語集」などが書かれました。
こう言った説話が作られる様になって、多くの人々に観音の信仰が知られる様になりました。
そうした事から寺院に訪れる人が多くなり、また、国家的祈祷にも重視されるようになりました。

国家から有力貴族へ

平安時代中期以降は、浄土信仰の発達を背景に極楽往生の思想が流行し、六道輪廻を救済する仏として地蔵と並んで観音も崇められました。
しかし、やがて国家的祈祷は、少なくなって行きます。
国家からの援助が少なくなって来た霊場は、有力貴族に援助を求める様になりました。
貴族は、霊場に参拝して観音と縁を結び、死後の極楽往生、一族の繁栄を願うようになりました。

平安時代後期には、特定の寺院へ「七観音参り」「百観音参り」などと称してお参りするようになって行きました。
そして、次第に順路が定められ、観音が33の姿に変えると言う教義になぞられて、33ヶ所の霊場巡りが僧侶などを中心に始められました。

文治三年(1187年)「千和載和歌集」に収められた

「三十三ヶ所観音をがみ奉らんとて所々詣りはべりける時」

と、いう「覚忠」という人の歌があります。
これによって、西国札所が平安時代末期には、存在していた事が明らかになり、覚忠が通った順路が次第に整備されていった様です。

一方、関東地方の札所は、鎌倉時代初期に開かれ僧侶を中心に観音巡礼が始められた様です。
秩父の札所に付いては、関東の武士の多くが西国に領土を持つ様になり、それと共に観音巡礼が武士の間にも広まり、やがて室町時代以降秩父に札所を設けられる様になりました。
そして、武士に混じって庶民の中に札所巡礼をする者が現れました。

江戸時代には、西国、坂東、秩父の札所の他にもそれらを模した数多くの札所が開かれ大名から庶民に至るまで多くの巡礼者が観音と縁を結ぶ様になりました。

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