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秩父札所四番金昌寺の石仏

金昌寺の石仏

秩父札所四番 金昌寺は、秩父札所の中でも異彩を放っている所です。
ここには、無数の石仏があります。
破損している物も多くあり、どこまでの破損で一体と考えるのか?
で、正確な数が変わりますが、破損の無い物では、現在でも1319体の石仏があります。
この金昌寺の石仏についての書籍がありまして、今回「金昌寺の石仏」(日本石仏協会埼玉支部)と、「秩父札所観音霊場第四番金昌寺のしおり」の二つの書籍を参考にして、二回に分けて、金昌寺の石仏について紹介します。

金昌寺の石仏の造立年代

一般的に供養塔であれ、墓石であれ、石仏に紀年名が刻まれています。
しかし、金昌寺の殆どの石仏には、紀年月日が刻まれていません。
なぜ刻まなかったのかは、今となっては知る由もないです。
明治年代以降の物を除いた紀年月日のある石仏は、1172体中にたったの22体しかありません。
1738年~1801年と、63年の間の石仏にのみ刻まれています。
この他にも刻まれていないだけで、この年間の石仏もあるでしょう。

石仏を祀った人々

金昌寺の石仏造立者の大きな特徴は、多くの大名の家来や奥女中、武士などが関わっていた事です。
江戸時代の石仏などには、大名や旗本、武士などの関係者と判断出来る銘文は、多くないのですが、なぜか、金昌寺の石仏に関しては、武士階級の人々が造立したと判断出来る物が多数あります。
特に目立って多いのが、徳川三家の一つの紀州家関係によるものが21体あり、次いで、越前家関係者による物が14体と、この二家が際立って多いです。

中でも「奥女中」による物が、紀州家が13体、越前家が14体もあります。
奥女中による造立目的は「闇に葬った我が子を供養するもの」と、見る向きがあります。
ただ、石仏の銘文には「御祈祷」「先祖菩堤」「二世安楽」などとされる物が多く、子供の戒名である「○○童子」や「○○童女」などの銘文は、1体もありません。
闇に葬った我が子をあからさまに石仏に刻ませないという事情があったとも考えられますが、紀州家奥女中が造立した13体中9体に「御祈祷」と刻まれている事から「闇に葬った我が子の供養」とする説は、否定しても良いのではないかと思います。

次に石仏群の中で目立って多いのが商人による造立です。
約280体あり、1体に複数の名前が刻まれている物を含めれば、300人以上の名前が刻まれています。
中には、商売内容が推測出来る物も多くあります。
「油屋」「桐屋」「錺屋(かざりや)」「花屋」「槌屋」「升屋」「鯛屋」「手品屋」「名酒屋」「染物屋」「鍔屋(つばや)」「八百屋」「道具屋」「桶屋」「槍屋」「亀甲屋」「小間物屋」「肥屋」「ぬし屋」「羽根屋」「旬魚酒屋」「船問屋」「織物屋」「万屋」「石屋」「大工」等があります。

造立者の地域

造立者の地名で一番多いのが、現在の東京で300ヶ所。
次いで地元の埼玉が96ヶ所。
群馬が23ヶ所、神奈川が24ヶ所、千葉が11ヶ所、茨木が8ヶ所、栃木が4ヶ所、山梨が2ヶ所。
関東以外の地方では、長野が6ヶ所、新潟が4ヶ所、静岡が4ヶ所、和歌山が1ヶ所、京都が1ヶ所、奈良が1ヶ所、東北が1ヶ所です。
圧倒的に江戸の住人が多いです。
江戸は、人口も多いし、財力のある人が多かったからだと思います。
また、将軍家関係者が多く参拝した江戸出開帳先で、秩父札所巡礼の為に長期間、家を留守にする事が困難だった、武家や商人などに対して、金昌寺の住職やその関係者などが、石仏の造立を勧め、それに応じて、金昌寺に石仏を造立したと言う事もあるのではないでしょうか?
寛延三年(1750年)の秩父総開帳の年の3月1日~3月21日までの「寛延三年巡礼往来人数改報告書」によると、巡礼者は、秩父札所一番 四万部寺では、26756人、秩父札所三十番 法雲寺には、30063人が巡礼に来たそうです。
一か月にも満たない期間にこれだけの巡礼者が来たのは、凄いと思います。
当然、金昌寺にも相応の巡礼者が来たと思います。
その時に石仏造立を勧められて、それに応じて造立したと言う人がいる事も当然ながらある事と思います。

造立の目的

金昌寺にある石仏の銘文を見ると、造立者の親族と思われる戒名や先祖代々一切精霊などの「追善供養」を目的とした物が多いです。
「追善供養」以外の目的の石仏は、少数ですが「二世安泰」「天下泰平」「御祈祷」「西国・坂東・秩父百番供養」「武運長久」「福寿増長」「家内安全」「子孫繁栄」などの「現世利益」を目的とした物もあります。

石工について

札所四番 金昌寺にある数々の石仏を残した石工についてですが、金昌寺の山門の前に石屋が居たという伝承以外、石工の技術の系統も氏名も不明です。
札所四番 金昌寺も明治政府の神仏分離政策により、廃寺となし、残された僅かな記録も失われたと言います。
石材を産出した岩殿山に札所三十一番があり、一丈三尺の石の仁王像があります。
長野県の石工 藤森吉弥の作ですが、札所四番 金昌寺の石仏と年代が合いません。
仮説ですが、当時の金昌寺の住職が石仏造設を計画する時に腕の良い石工2~3人に協力を求め、門前に住居を与えて生活の保障をし、石仏作りに専念させたのではないでしょうか?
石仏の中には、未完成な物もあります。
これは、門前に未完成の石仏を並べて巡礼者に寄進を勧め、注文を受けた後に完成して安置していたと思われます。
石像の年代については、年代を明記した物は、少なく、明瞭な物は、天明五年から寛政七年の十一年間ですが、実際には、六角堂建設の明和頃から石仏は、寄進され完成までに三十年位は、かかったと思われ、石仏の技法も一様ではないそうです。

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