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秩父札所一番四萬部寺の観音霊験記

楽しむ為の札所巡礼

元禄の頃に「巡礼かるた」が作られ、歌舞伎俳優の似顔絵を巡礼姿に写して札所巡礼する様に仕込まれた物が大流行したと言います。
また、近衛門左衛門が「難破三十三カ所」巡りのありさまを「曽根崎心中」の冒頭に取り込み、作品の構成を深め好評を博しました。

近松半二作「傾城阿波の鳴門」では、歌舞伎の世界に札所巡礼を盛り込み、女性の札所巡礼姿が哀れを誘い好評を呼んだと言われています。
文芸にも取り扱われる程に札所巡礼が庶民の間に広まると、参加する物の中には、札所巡礼本来の目的である求道修行的な面を忘れてしまう人々も出て来ました。

元禄以降、女性の札所巡礼も盛んになって来ました。
中には、金持ちが衣装に伊達を尽くし、集団で鐘や太鼓を叩きながら巡る型破りな行動を取る者も現れました。
これは、年を経るごとに流行した為、ついに法令が出され取り締まれたほどであったと言います。
この様に札所巡礼が大衆化したのは、交通環境の整備、庶民の時間と懐の余裕、天下泰平の平和な世の中であった事などが要因と考えられます。

札所巡礼の旅は、心身の疲れから体力が続かず、旅を中断し、禁欲生活を一時解除して、体力を回復する者もいました。
これを「中入り」と言います。
また、還路では、札所巡礼の世界から俗なる世界に戻る為の儀式として「精進通し」が行われました。
酒を飲んだり、魚を食べたりして、無事に札所巡礼が出来た事を感謝するとともに祝うものです。

札所巡礼者の中には、満願にならないうちに精進を離れる者もいたようです。
十返舎一九の著述による「秩父札所記」には、

「この巡礼で久しいこと婦女を精進した、これから加納へ出て、こめやへ旅泊って精進落ちに洒落ましょう」

とあり、当時の札所巡礼者の心を代弁したものと言えます。

また、札所巡礼者の中には、

「観音三十三ヶ所まはれども、後生のことは尻くらひなれ」

と、出会いを求める為の旅として心得違いをしていた者もいたと言います。

文政年間に出版された「西国巡礼道中細見大全」に載っていた道中心得には、こう書かれています。

「男女たはむるべからず、言葉を慎むべし」

「道連れに肌をゆるすべからず」

と、あり、この様な戒めを破る行為がしばしばあった事を物語っています。

また、札所巡礼者は、札所寺院の他にも名所や旧跡を訪れると共にその土地の名物を数多く食する為に同じ道を通らない様に心がけるようになったと言います。

人々の札所巡礼に対する意識がこの様に変化して行くに従い納経行為の目的は忘れられ、礼拝した事を証明する朱印集めに熱中し、千社札と呼ばれる納経札を堂などの建物に貼り付ける札所巡礼者が現れます。
この千社札を貼る行為は、納札の一種で、天明から寛政の頃(1781年~1801年)に江戸で流行した稲荷千参りに起源を持ち「千社札参りの題名札」が略され千社札と呼ばれるようになったと言います。

ちなみに札を貼るには、まず礼拝し、そのうえで住職の許可を得るという手続きを必ず踏まなければならなかった様です。
札が貼ってある間は、その堂宇に参籠(さんろう)している事を意味し、祈願した行為が継続しているものと考えられていました。
札を貼る者にとって、再び寺院を訪れ、自分が貼った札が残されているのかを確かめる事が一つの楽しみになったと言います。

江戸文字で自分の名前を記した納札は、単に札所に納めるだけでなく、接待を受けた時に渡したり、巡礼者同士で名刺代わりに交換したりして、旅路や宿を同じくした人々の交流を図る際にも使われた様です。

この様に札所巡礼の旅は、民衆にとって苦難に耐えるべきものから楽しむべきものへと変化して行きました。
農民の生活が苦しく、窮屈であればあるほど旅は、日常からの開放となる良い機会であったのではないでしょうか?
当時の人々にとって、ありがたい寺院の伽藍(がらん)を仰ぎ、祈りをささげ、それぞれの土地の食べ物を味わい、語り合う事は、教養と話の種を仕込む貴重な機会だったのかも知れません。

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