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秩父札所1番四萬部寺の水子身代わり地蔵

秩父札所の江戸出開帳

中世までの巡礼は、現在の様にいつでもまわれるものではなかった様です。
秩父札所33ヶ所の霊場には、下層身分の集団がいて、諸国をまわって、観音信仰の布教活動をしていました。
ところが、江戸時代になると、幕府は「寺院法度」によって、寺院統制を厳しくし、行人、山伏、遊行僧などを取り締まるようになりました。
布教活動を行うにも許可が必要となり、それまで多くの観音信者を巡礼に導いていた布教活動も急速に衰えて行きました。
この為、霊場では、新たに勧誘活動を始めなければならず、その方策として、江戸で本尊や寺宝を公開する「出開帳」が行われるようになりました。

総出開帳の成功

秩父札所で初めての出開帳が行われたのは、二十番の岩之上観音だそうです。
延宝六年(1678年)寺尾村の内田政勝が岩の上観音堂の自力再建を志して、江戸にて広く協力を求めて本尊を公開したそうです。

同本尊は、更に武蔵、相模、駿河、上総、下総、上野などの諸国に出開帳して協力を求めたと言います。
これを契機に元禄五年(1692年)に札所十八番神門観音。
同十三年(1700年)に札所十四番今宮観音とその持ち堂である札所二十八番橋立観音。
正得四年(1714年)に札所三十一番鷲岩殿観音(今の観音院)。
享保十三年(1728年)に札所二十四番白山観音(今の法泉寺)がそれぞれ、単独に出開帳を行ったそうです。

これらは、江戸触頭の山伏大聖院の口添えにより寺社奉行が許可したものだそうです。
厳しく取り締まられる中で、出開帳を行う事が出来たのもコネがあったからなんでしょうね。

この他にもコネはあったみたいで、例えば、正得四年(1714年)に札所二十六番岩井堂観音が、別当寺円融寺である鎌倉建長寺を経て、江戸触頭であった金地院(こんちいん)の添状を持って、寺社奉行へ願い出て江戸での出開帳の許可を得ています。

その後も秩父札所は、単独で出開帳を行って行くのですがやがて、個々で行って来た出開帳を連合して行われるようになりました。

明和元年(1764年)7月に将軍家と縁の深い護国寺において、江戸総出開帳が90日間行われました。
その間は、大奥女中、諸大名、旗本らの参拝があり江戸庶民の参拝も後を絶たなかったそうです。
明和の総出開帳に成功した秩父札所は、その後も護国を中心に度々総出開帳を行ったそうです。

午年の総出開帳

江戸において、出開帳を行い庶民の心を掴んだ秩父札所は、午年毎に総出開帳を行う様になり、より多くの巡礼者を秩父に迎えた。
記録によると、寛延三年(1750年)には、開帳時の1月〜3月中に札所一番のある栃谷村では、40667人。
札所三十番のある白久村では、52811人の巡礼者を受け入れた事が報告されています。
当時の村の人口がどれくらいなのかは分かりませんが、これは、凄い数字だというのは分かります。
出開帳がいかに江戸庶民の心を掴んだのかが現れている数字だと思います。
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