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秩父札所2番真福寺の観音霊験記

江戸庶民の札所巡礼

江戸庶民の札所を巡る旅は、仏の慈悲を頼み、病気を治し福徳円満などの功徳を得る為に行う目的意識がはっきりした旅です。
札所巡礼の動機は、

「みずから苦しみを積まなければ、願い事は叶わない」

と、いう庶民信仰のあり方に支えられています。
人間の病気、災難や不幸は、全て意識的、無意識的に関わらず、自己が招いた罪の報いとして生じたもの。
罪滅しをしなければ、拭い去る事が出来ないとの考えに基づいたものです。
そして、罪は、心と体で犯したものであるから、これをあがなう為に心身を苦しめる修行の旅に出るのです。

札所巡礼のスタイルの形成

札所巡礼の旅は、独自のスタイルが形成されました。
札所巡礼姿と言えば白装束と思い浮かぶ様に身支度として、笈摺(おいずる)を着用し法華経を書写あるいは読み札所へ奉納するという参拝の作法が生まれました。

笈摺(おいずる)が札所巡礼の装束になったのは、室町時代の頃であるといわれ、江戸時代になると、様々な規則が加えられて行きました。
現在では、白一色ですが、昔は、両親が健在なら左右を茜色に染め、片親である場合は、中を茜色で染めました。
両親とも不在の場合は、白と定められていました。

笈摺(おいずる)を身につける事は、おのずから心身共に清浄にして無垢となる状態に入る事を意味し、一介の札所巡礼者として、全てのものが平等に扱われる為、士農工商と身分による制約の多い近世時代において、身分束縛から解放される面も持ち合わせていました。

なお、笈摺(おいずる)は、札所を全て訪れた後に結願所に奉納する事になっていますが、お守りとして持ち帰る事もあった様です。

また、札所巡礼を行う際の心得もまとめられていました。
「秩父巡礼記」という物の中には、こう書かれています。

1、同行者は仲良くする事。

2、あまり無駄口をきかない事。

3、宿や食べ物について不満を言わぬ事。

4、慈悲の心を忘れない事。

5、心や身体を慎んで奢らない事。

などが、あげられています。

札所巡礼者にとって一番の心配事は、道中でうまく泊まれる所があるかどうかという事だったそうです。
札所巡礼は、苦難苦行をする目的だったので、一般的な宿に泊まる事は出来ません。
食べ物は、自分で揃え、自炊をしなければならなかった様です。
宿は、木賃宿と呼ばれる所を利用したそうです。
木賃宿とは、煮炊き用の薪代を支払うだけで泊まれる所で、費用が安く済んだようです。
ただ、木賃宿は、農家が作物が取れない時期に副業でやっていた所が多く、寝具などがちゃんと揃っていない所が多くあり、快適ではなかった様です。
木賃宿も見つからない時には、札所の篭り堂、それが無ければ、堂や宮の縁の下、村の共同墓地にある輿堂(みこしどう)などに宿泊したそうです。

成人儀式としての札所巡礼

この様に札所巡礼の旅は、功徳を得る為に苦労苦痛を伴う信心の旅でしたが、他人を頼らない自立心を育てる良い機会でもあった様です。
記録によると、天保の頃(1830年〜1845年)から関東地方の農村の若者の間で、西国巡礼が行われる様になったと言います。
年齢は、15歳〜25歳位で、10人前後で出かけたといい、一人前になる為の通過儀式として札所巡礼を経験したものと考えられています。

江戸時代において、巡礼が盛んであった時期は、元禄期(1688年〜1704年)宝暦、明和、安永年間(1751年〜1781年)、文化、文政期(1804年〜1830年)であったとされています。
そして、巡礼を行う時期は、作物が育たない時期だった様です。
特に秩父札所は、江戸から近いというだけでなく、関所を超える事なく秩父札所巡礼をする事が出来た為、江戸の町民はもとより近郷の農民にとって関所手形を作る事なく旅立つ事が出来た為多くの秩父札所巡礼者が訪れる事になりました。

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